ぼろぼろになった地上に別れを告げ、父と妹とわたしは地底をめざす。以前通学した小学校の建物のなかに忍びこみ、トイレと教室を隔てる一枚の外壁にドリルで穴をこじ開けると、そこには洞窟がひろがっていた。洞窟は防空壕のようで、捨てられた地下鉄の線路のようでもあり、どちらでもあった。追手はもうそこまで来ていて、一気に全員が動くとすぐ気づかれてしまうため、父だけが先に向かうことになる。妹はどこかへ姿を消してしまっていた。わたしは追手を撒きながら合間を見計らい、洞窟に入り父を探した。洞窟のなかを進んでいくと、百貨店の広場が見えてくる。フロアは若者の姿を象った地底人でひしめいていて、わたしは雑踏のなかにいる父を発見して飛びついた。父はわたしの姿を見た途端、ぼろりと泣きだした。二人でフロアのなかを歩き、旅に必要なものを買い足していく。地底では地底のエネルギーしか使うことができないため、地上の機械を地底で使用するためにはアダプタを買う必要があった。しかしこれはなぜか嘘のように思えてならなかった。買い足したものをサブバックにいろいろ詰め込む。遠くへ向かうため電車に乗ることになり、乗車するときだけはなぜか地上へ出ねばならなかった。地上はおそろしくて、わたしはどうしても出たくなかったが、父といっしょに緑色の電車へ乗り込む。車窓からはとろりとした暁と荒れ果てた地上の姿が見えた。窓は開け放され、朝のつめたい空気がするする流れこんでいる。消えていた妹は終点の駅にいた。三人で再び地底へもぐろうとすると、誰かに肩をつかまれた。そのままおかしなテーマパークに連れて行かれ、その人物からこの地底で起こったことのいろいろはすべてが国立学校の編入式だということを聞かされた。隣の建物からはミックスジュースがとめどなく噴き出し、妹はそこでたのしそうに戯れていた。父は消失してしまった。わけがわからなくなって、わたしはプールに飛び込み、ずぶ濡れになりながらどこまでも駆け狂った。
浸水していた。友人と高校の同級生とゼミの同期と数人で巨大な湖へ赴き、近くに宿泊することになる。迎えのボートが来るまでの間ということで、わたしたちはちいさな部屋のなかに居た。旅には剃髪した黒縁眼鏡の男性が引率としてついており、終始部屋のベランダで煙草をふかしていた。部屋には水が満ちていて、立脚しているとそれは浸水したまま、人間が高いところに一旦のぼってから降りると、さっと水が引いていく。そういう部屋だった。時間はかなり残っているため、全員ともが水の中に入ったり出たりなどをして戯れていたがわたしはなぜか馴染めなかった。友人は皆と滞りなくしていた。戯れていると、部屋のなかに木のベッドと脚立が出現する。布団は浮いて、金髪の男の子がはしゃいでいる。仲間のうち一人の男性を目で追いかけていたわたしはなんども回転する。そのうち部屋は乾いていって、干からびた。まだボートは来ない。
家族そろって旅行に出かけることになり、バス停の前で待ち合わせていると、その近くに職場の上司がいることに気づいた、ような気がした。というのもわたしは些細な事で道草を食っていて、バス停についたときにはもう車のエンジンがかかり、発車というところだったからで、車前にとびだして、両腕を大きく広げながら、乗せろと強いることでどうにか間に合う。揺られながら目的地へと向かうなか、いつの間にか上司は忽然と姿を消していた。車はいくつかの山と海をもくもくと越えていき、或る海に近いところ、崖の上へとたどり着く。降りてそこから水張を一望すると、向こうには天地を分かつ緩やかな曲線がのびている。下を見る。その面はなめらかだった。見る。ふと、次第に小浪が広がり、ちいさく、おおきく、沸騰しはじめ、表に浮かび上がるものがある。赤い、弾力のつやしさと、いくつもの眼、いくつもの喇叭。蛸の脚のようだが、脚だけだった。その脚のようなものは海老や何らかの幼虫に似た丸まり方をしたとおもえば、唐突に身体を反対側へそらしながらぐにゃりと浮かび上がる。一つだけではなかった。たくさん上がってきた。そこから微かに生臭い匂いが漂いだしてきた瞬間、示し合わせたようにそれらはいきなり小刻みに動きはじめ、こちら側へ向かって大きく跳躍してきた。その、いくつもいくつも崖に打ち上げられていた、脚のような、そうでもないような、よく見るとぶよりとしていて太った蛭に似ているその生き物が、草叢のなかでぐにょぐにょと蠢いている。生き物からは湯気がたちこめていて、生臭い匂いのなかに、柔らかく甘く、ふわふわした、べつの匂いが入り混じっていた。
泳ぐ日は
天蓋からのぼりつめる
灯りをつけた沙が
宙とすれちがい、交ざりこんで
満ちたつように
自転車を追いかけていく殻たち
ゆくゆくには明りきってしまう
もつれた蜜蝋、紙石鹸と梨のにおい
嘔きかえそう
きこえた気がした
幾つの脚でからめとり
水にならぶ煙をのばして
電極に坐りこむあなたがたを
置いては行けなかった
わたしたちは覆い尽くされている。どうにか仕事に区切りがつき、濁りかけた意識を揺さぶりながら外へ出ると、そこらで応作する空気のひとつひとつには、ふと、粘膜の気配があった。湿潤しながらふわふわと漂い、五月を死に至らしめる、あたたかく腐敗した、眠れない夜のにおい。車窓から景色を見送るとき、橋を駆け上がるとき、道をひとりで歩くとき。それはどこにでもいた。すれ違うひとびとの外殻や、汗ばんだ鉄塔、森のなか。ひとつと息をするたび、それを招き入れるものの四肢を崩すように、黒びた窒素の芥からぬるい気配が湧き上がり、対峙した意識、果てはパイプへとすべりこんでいく。神経をつなぐ。イメージ。回転。満ち引きをくりかえす外皮。橙色。熱を湛える腕。タルクの跡。網のような信号。頸はうろんとしていて、眠ることがない。いつかの果てへと顔を擡げるはずだった彼らは、次第に広がりを見せていく。ふと掬いあげてしまったこれは顕されたものか、それとも。
座標点の旁々に織りなす人びと。彼らと彼方。半鐘は今日も網のなかを躍していく。明、滅、明、滅、粒子をすくい取る間に、旁々はあらゆるところへ千々れていく。折りかえすこと。器のなかには膠がある。糸を引くように跡をつけて、歩行にしかならない。列ねた外壁を組み立てなおすための音と末日と陰を寄せながら、乾いてゆく、そのようにして乾いてゆくのだろう、なんて、いいから目を臥せておくのだ、くずれた会釈としての、繭、繭、繭。
青くてうす暗い部屋のなかで、男性が椅子に座ってデスクのまえに貼られたレントゲンのフィルムを見ていた。男性のまえには女性がいて、ずっと獰猛な犬に襲われており、そうこうしているうちに彼女は喉元を食われてしまって息絶えたのだが、男性はまったく動じておらず、フィルムの貼られてぼんやりと輝くデスクのほうを眺めるばかりだった。わたしは近くの扉をあけて隣の部屋に向かった。隣にはなぜか母がいて、靴下に虫がわいているから脱ぎなさいと彼女に言われた。虫のいる様子は、感覚としてはっきりとしないが、いま履いている靴下がどうも異様にじっとりとしているのがわかった。靴下を脱いで裸足のままトイレに向かうと、トイレの照明のそこかしこが破損していて、照明がある天井の、こわれた先から水がぽたぽたとこぼれ出しており、それなのに灯りはところどころ点いて、細かい光が水に映りながら歪んで、シャンデリアのそれのようにきらきらと輝いていた。緑や赤や黄の混じっていない、矢車菊のような青さをした、うす暗い部屋だった。
一人暮らしの夢を見る。妹は高台の広いが古いマンションで家賃が二万のところで暮らしている、だがマンションというより真っ白なお屋敷の一部屋という感じだった、妹は予定がかぶったと言ってなぜか自分の代わりに学校で試験を受けてくれと言う、顔をあまり見せないようにしてこっそり潜り込んだら、教室には昔の知り合いがいて何故か有名人になっていた、いまの知り合いもいて、昔の知り合いと知己だった、どうにかしてやりすごそうとしたがたぶんばれたのだと思う、わたしは荷物をまとめて妹の部屋に帰った。妹は割れた白い皿が無数に敷き詰められたアバンギャルドな部屋で椅子にこしかけて、なにかの手紙を読んだあとこちらに向かって白い粘土で汚れたスプーンとフォークを渡してきて、礼をくれたあと、帰っても構わないと言ってきた、わたしは帰った、むかしの家を天地ひっくりかえして西向きにしたような、わたしの家に、わたしも一人暮らしをしていて、部屋はまだ散らかったままで、キッチンのコンロには青いビニールシートがかけてあって、シートの上にはさきほどもらったのと同じ粘土まみれの食器がたくさん散らばっていた、西陽があかるくて、それはまるで朝の憂鬱なきらめきのようだった。
ほしいものがあった。ゆるやかに捻れる主線、滑らかで硬質なエナメルの輝き、マティスが描いていた部屋のように鮮烈な色彩、高らかな尖端が大理石やアスファルトへ降り立ち、そのときに放出されていく空気の響き。学校が早く終わった日、すこしだけしなりはじめたランドセルを部屋において、わたしはときどき自分の持つ靴をすべて靴箱から出して、玄関の床に手でぱかぱかと叩きつけ、その音を確かめることがあった。同じ音が出ないことに気づいてからは、いちばん近そうな音を放つものを選び、それを履いたときのことを思い描きながら、ゆっくりと爪先立ちをして歩いた。
すきな場所があった。焦点さえも消えてしまいそうに真白い照明が降り注ぐ、その下で、黒いつややかな立方体のなかを金、銀、ピンク、紫、水色、さまざまな色彩が泳いでは騒ぎ、通りすぎながら、小さな展示用の棚のなかに礼儀正しく座りこんでいく。母に連れられて街に出かけたときはいつも、百貨店やデパートの一階フロアに広がる、その場所をなんども、穴が空くほどに見つめていた。 そのなかでもそれはひときわ心の奥につよく刻みこまれた。黒いケース、金色をした中筒のなかには、鮮烈なその、あかい魔術が封じ込まれている。母親のものをひそかに持ち出してつかった。わたしのすきなその鮮烈な色彩ではなかったけれど、ふたを開け、下を捻るようにまわし上げて、筒におさまったそれを引き出し、空気にさらす、唇にあてて、よこに引く、それが出来ただけで、なにかとても頭のなかが馨しいものでいっぱいに満たされたような心持ちになれた。 不思議なことがあった。テレビや雑誌のなかでこちらに笑いかけている女の人たち、爪、髪、腕、水をうけて流れる、彼女らのうつくしい曲線、それを見ていると、たくさんの好きなことへ重なり積もるような、或いはそのどれとも違うような、どこかからともなくあらわれた涙や血液やいろいろなものが身体のなかを激しくながれはじめ、信号が点滅するときのようにして、血肉の裏側では、なにかが眩しくなんども輝いていた。わたしはあかいものが好きだった。あかいものが、好きだった。 しまいこんだものがあった。ああいう人間はあるべき自然に逆らいながら生きていて、頭がどうかしている、食事をするときも、テレビを見るときも、生活するなかで、繰り返し言い聞かされてきたことだった。わたしは自分が感覚したもの、こと、すべてを頭のなかから消し去って、わたしではない誰かになるようにして、隣で話している彼らを見ていた。そうだね、きっと、どうかしている。どうかしているんだろう。ひどかった喘息は水泳に通いながら治すことができた。けれど、これは、いつか治るのだろうか。 少しずつ欠けていくものがあった。その後は女の子ばかりのいる学校に通い、しばらくして共学に移った。女の子に囲まれながら生活していたころ、手をつないで廊下を歩いている彼女たちの姿を横目で見ながら、こわいとか、よくわからないとかいう話を友達と交わしては、その傍らで、わたしはどうなってしまうのだろうかという思いを、身体がしずかに押し込めていた。力強く押し込めすぎて、そのことにすら気づけぬまま、わたしはかなしいことをしていた。ようやくそれに気づけたのは、とても後になってからで、そのときにはもう、あらゆることがどうしようもなく、感覚は傷痕にまみれていた。 いろいろなことがあった。教室には、背が高いとか、きれいな顔や身体つきをしているとか、やさしいとか、すてきな男の子がたくさんいて、わたしは彼らのことを好いと思っていた。けれど、たくさんの女の子たちに囲まれて生活するそれよりも前からしまいこみつづけてきたものは、まだそこに、その後も、いつまでも、わたしのなかへ静かに座っていた。子供のころ夢中になったアニメ、漫画、すきだったアイドル、勉強のこと、いやなこと、たのしいこと、女の子と話をするのが好きで、ときおり彼女たちの姿を見ては、不思議なものを感じていた。彼女たちの背後では暫し、あかいものとあおいもの、ふたつの色彩がその身体を覆い尽くすときがあった。ひとりであることに怯えていて、誰かのために何かをしようと、心を削りつづける人もいた。彼女たちのことが、時にはこわいとか厄介だと思えたり、息が詰まりそうなこともあったけれど、その息が詰まりかけたぶんだけ彼女たちの存在が頭から離れることはなく、それを感覚しただけに足りる論理を、つけることができなかった。
めくらねばならない膜があった。すきだったルビーの、もしくはサファイアの、或いは混淆としたコランダムなのかもしれない、決して、かつて焦がれたうつくしい輝きとは同じではない、遠くにしまいこみながら傷つけてきたそれが、角をすこし失いながら、いまも、わたしのなかで生きつづけている。
かつて、頭から爪先までを洗いざらい切り開いてしまって血管のひとつひとつを空気に触れさせていけば、身体のその流れから続く、知覚の袂をつよく掴もうとしてくれるような、何らかの存在に邂逅できるかもしれないと思っていた。ハードカバー本の裏紙を剥く、白い壁に穴をこじあけてみる、二つにひらいたラジオカセット、シャープペンシルの先端、バネ、胴体、中心や尾を分けて、ひとつひとつ、そのすべてを光のもとに。
こうしていまもわたしの前に見えつづけているそれは、ときどき、自身の身体から這い出たひとつのおおきな膜に形を変化させ、また或るときは、わたしでもだれかでもだれでもない圧倒的な誰かという観念的な環境としてそこに鎮座していた。わたしのロジック、あなたのロジック、切り開かれた神経たちのひとつひとつを縒るようにして、なめした膜に穴をあけ、それを通し、圧倒的な彼らの爪先や耳朶に届くように、編み上げることができればよかった。
すべての事象には力がはたらく。四肢をうごかすそのたびに身体のまわりには微かな空気の流れが生じ、かたや雲のうえから零れるおおきな雨粒があらゆるものの身体を砕く。力のはたらきは呼吸のように、放出と吸収を繰り返していた。
切り開くということ、切り開いたときにはたらく力、それが与えるイメージにおおきく鮮烈なものを感じて、そこから遠ざかってしまったときがあった。わたしが切り開いたものを見ながら訝しそうにしていたり、わたしの言葉に傷ついたり、わたしが切り開いたそのすべてを大事に大事に抱きしめてくれて、わたしがよりあげた神経たちを使ってわたしの頚を少しずつくくろうとしてくれる、やさしくも恐ろしい存在たちに邂逅してしまったからだった。切り開かれたもののロジックは、その中身ひとつひとつにしか内在しないと思っていた。だけれど、切り開かれたものが数多あつまり、ひとつひとつとして機能し、おおきな何らかのロジックの一部と成り果てることも可能なのである。 わたしはおそろしくなり、切り開いたものはすべて縫いあわせ、音をはずして、息をころして、眠りにつくようになった。力がおそろしいのなら、初めからそれを生まないようにすればよいと思った。つよくなりたくなかった。
だが、疑いもなく、どうしようもなく、すべての事象にはなんらかの力がはたらくのである。力は一方にすすみきったまま完結することはない。力が加えられたとき、多かれ少なかれ、加えられたぶんの力は必ず向こうからかえってくる。放出せず吸い込むだけの力を求めようとすれば、わたしはおそらく宇宙の奥底、何万光年もの彼方を徘徊している巨大な穴に接続しなければならないだろう。それは不可能だった。
それがなんらかの力になり得るということを理解しながら、わたしは少しずつまたこの身体と心に刃をしずみこませ、血のながれる、臓が脈打つ、骨が行き交うさまをここで提示するのだろう。なめした膜をめくる。波のようにさわぐ皮膚の流れ、その下をうごめいている血漿の海、途方にくれるほど大好きで、大嫌いな、わたしの半身たちがそこに坐っている。
ある日、臨月間近の妻を持つわたしが家に帰ってみると、部屋の様子がおかしかった、部屋のなかには枇杷のような形をした赤い箱がおかれており、それが薄暗い部屋のなかをぺたぺたと歩き回っていて、わたしは、これが子供の姿だと気づいた、一体どうしたのかと思ったら、子供は時折ふつうの姿に戻って部屋を歩いたりする、他にもおかしなことが多くて、用を足していたら便座の奥からケタケタという声が聞こえてきたり、妻を見ていたはずの医者はなぜか召使いのような格好をして部屋をせわしく歩きまわるし、あかるく極彩色だった部屋はいまは薄暗く、ぼんやりとした青い光につつまれて、不気味である、妻は白いワンピースを着て部屋のなかにおり、わたしの姿を見ると嬉しそうな顔をして駆け寄ってくる、身ごもっていたはずの彼女の腹部はなぜか、すっきりとしていて、容貌も、妊婦というよりは出会ったころの可愛らしい少女のままだった、おかしいと思って問い詰めても、はぐらかされてしまう、彼女は不意にさみしげな顏をしたかと思うと急にこちらになおって、そうっと、なにかを喉のおくに抱えているような、抑えられないような表情をして、わたしに顔を近づけてくる、そのとき、なぜか風景が変わり、わたしはいつのまにか電車の、連結器のうえに立っていた、蒼ざめた視界が横なぐりにめくれていくのを見ながら、彼女はわたしの、唇のうわずみをなぞっていった、深くない、ふつうのそれであったけれど、温度はなく、しかしそのなかにも皮膚とのやわらかく跳ねかえり戻るような感触だけが伝わってきて、不可思議で、やさしくて、寂しかった。風景が部屋のなかに戻り、妻は台所でじっと俯いていた、わたしは居間で正座していて、召使いだった医者は元の姿になっていた、医者がわたしに語ってくれた、身ごもっていた奥さんは、腹のなかを人ならざるものに憑かれてしまいました、それで自分が呼ばれたが、普通では到底落とせない類の憑き物だったので、これは自分の命をもってして落としました、子供の命も失われました、奥さん自身は無事ですが、すこし、精神的に退行していく部分が見られるでしょう、医者はそう残して、消えて行った、だけれど部屋はずっと薄暗く蒼いままで、白い服を着た妻はこちらに背を向けたまま台所でじっと佇んでいて、わたしは驚嘆とも哀しみともつかない声をあげて、そのときには、もう目が覚めてしまった。
不思議だった。反るたびにひとつ、夢のなかで身体がこわれていった。息をして、ゼロから、人体模型のような女性になりはじめたが、頸まで再生しかける細胞は、ひとつの破裂で霧になっていき、剥かれた、粘膜としてのわたしが、傷つきを乗り越す、今度は輪郭をかえて、わたしは石英の彫像のような男性になったが、身体つきは弱く、喘息のときに似た、喉のいたさにすぐ形を失ってしまう。男性の、欠け落ちた部分をわたしはわたしの腕で受け止め、これが、あたらしい改編で、内的でありながらとても外的であることに、言いようのない歓びを憶えて、痛みきった喉で、仰ぎながら、友人や、家族や、しらない人の名前を呼んでいた、わたしはもう大丈夫だった、これほど痛いのにもう大丈夫だった、自分が幻獣みたいになったことがうれしくて、文字を指でちぎって食べたり、両性具有になってダンスをしたり、精神体のままで化粧をしたり、身体はなんども崩れながら、一部だけを立て直しながら、男性、女性、精巧、機械、自然、ガラス、たくさんのがちゃがちゃしたパーツを、腕や、ただれきった首や、あるいは眼や、腰のあたりにたくさんあつめて、けれど、傷みはとてもつよくて、集めたパーツが、生理的な反射によって、だんだんこぼれおちていくのは止まらなくて、だけれど焦りなどなくて、そういうことをしながら、そうだった、あたらしい改編だった、冷房が効きすぎていたのか、よろこびなから咳き込んでいたら、いつのまにか眼がさめてしまったが、感覚としては、最初から半分だけ起きていたような気がする。
とある試験を受けるにあたって、地道に勉強していたら、あろうことかその前々日に風邪を引いてしまい、ポカリスエットを飲みつつ一日だけ寝込んでどうにか気力で治した。しかし、一山越えたあたりから、最初ぼんやりと痛かっただけの喉が腫れはじめ、昨日に至っては咳と咳、今朝は鏡前でおおきく口を開けてヨードチンキを塗った。
家事を終えたあとに、母がいつもどこかに出かけていくので、気になって後をつけてみたら、風景が変わり、わたしは古びた大きな日本家屋のような場所に寝転がっていて、見渡すと、部屋の中はどこまでも、洗濯した服、そうでない服、昔よく着ていた服、とにかく床がすべて服でまみれていて、だけれど最近の服はどこにも見当たらなかった。起き上がると母が部屋の奥にいて、近くにあるテレビを見ながら、ぼうっと朝食を摂っており、そのとき、わたしはこの場所が、自分の住む家が別次元の形をとったときの姿であることと、母がそのなかを行き交いしながら生活していることにきづく。なぜか父はそこにいなかった。別次元の家にいるときのわたしは、いろいろなものに触れると夢で見たような風景が見える、子供のときのようなそういう視え方を持っていたが、その代わりに記憶と思考、身体はすっかり大人になっており、そこかしこを見るだけで悲しい気持ちになったので、わたしは母の代わりにもともと居た次元のほうへ、使いを頼まれに行くことにした。外に着ていく服が見あたらないので、しばらく部屋中を漁ると、学生の頃に使っていたワイシャツが見つかり、それを着ると、彼方から電車の走る音がして、ぐらっと線路のなかに落ちてしまうような感覚をおぼえたと思ったら、風景が変わり、外は真夏の夕方で、気がついたときわたしは以前住んでいた家の近くを通る線路のそばにいて、電車が勢いよく駆け抜けていくのを見ながら、側にあった自転車に乗って、ゆっくりとペダルを踏んだ。
(夢の情景。戦時中、軍の人間と思われる大きな男に家族で捕まって、基地の下の、白い無数の配管がたくさん這うコンクリートの小さな部屋に押し込められて過ごす。しかし、四歳のわたしがポケットの中のものを全てどこか別の場所にしまったことが男にばれて、部屋中を彼に調べられる。おもちゃ、本、写真たち、血の跡。部屋のなかにある品にはところどころマジックで規格外と書かれたものがあり、上官の意向なのか、男はそれを写真におさめることを禁じていて、あらかた部屋を調べたあとに写真を撮るとき、それらを映さないようにしていた。そのあと、その上の階にある大きなまるくてつるりと白いタンクの下にたどり着いたわたしは、くすんだ藍色のライトに包まれる基地のなかを、ひとりでずっと走り続けた。)昼寝をしていた。身体がとぷとぷ浮かぶようで、気持ちよかったのだが、意識が持ち上がりかけたとき、窓の外から、わあんわあんと、なにかの声が聞こえてきた。それは子供の声のようでもあり、猫の鳴き声みたくもあり、窓のすき間から風が差し込むときの音であるようにも思えた。わあんわあんと、行ったり来たりする音はしばらく続き、段々それが自然のものであるように思えてきて、頭から取り除きたくなる、そのあと突然、わたしの意識がはっきりした。すると、あれだけ反復していた声はぴたりと止んでしまった。窓に近づいて確かめてみたがもう声は聞こえてこない。気がつくと夕方で、部屋に来た妹がわたしに、おねえちゃん、もうご飯だから、と言った。
クスクスと、崩れる、しろい腕をだきしめて、にらみながら隠れていく、息継ぎどもよ、はらからにはおまえの、坐した頚が煙る、脚線をついばむように、泳ぎだす耳は軟く、甘やかな骨に穿たれて、つやしい涙腺は皿と、爛れたうなじにおちていく、透けかけた尾鰭、ぬるめく陰、天を仰ぎ、玻璃は倒立に鳴く、椎骨をながれて、おちる石鹸、砕かれた硝子、蛇に窓枠を泳がせ、あたたかく、髄へ坐り込む夜の晶、傘を喰らう森と、夢、の遠景、綴やかなる五十一の旭扇、息継ぎした眼、ぬい直すように、ちらちらと泳ぐ月、玖珠とぬれる、なみの棺に向きよせて、おまえは爪をかげにぬらし、人差し指で、立ちすくんだ、山梔子にあてた腹と、その口を忘れない、ねえ、後ろから流れ込む、この糸が見えるだろう、淡々としろい腕は、目映ゆいマシコットに染まり、こぼれおちた座標点も、床で哂うだけだ、おまえの旗はねじれながら、わたしの頬骨をすいこんで、貫かれためくら、ながれだす其の、青ざめた煙に、只、かなしみをおぼえ、ている、の、は、呼び寄せられた、歯があるからだ、ね、来たるべき、わたしとおまえの、つつましくなだらかな虚無、戒められたふたりの横顔、むなしい機雷が、ほろほろと生え、向こう側から、あなたが、とれ、おまえが、くずれて、わたし、とわたしにか、わる、グラスを抜けて、白昼より、来たる光は、つよく、わたしの背中を焼き落とし、て、うつくしいわ、いやしいわうやうやしいわあやしいわ、あわあわともえあがるうつくしきのいとだかりはいやいやしいわ、くずれるもものきいろいほろ、ながれるつちのむせるかおり、しととあまねくつゆくさのなみ、けむりを、みあげるように、まぼろしの、嘴、めのまえで、わらい、顎をしきりに、削ぎ取るように、すてられていった、電極たちを頸に掛けて、うごく、したたる詞を撫でながら、つめたい、ゆめへ、身体をまげるあなた、仄暮れた灯台にむけての、白樺と、くずれた瞼をして、軟くうつむく、静脈は、倡えたくもきこえない、しらないまつげをして、伸びる舌の、巻かれる神経、色仙術、いよいよと、しろくほそく象る陶器、燃える釣鉤、と鱗のなか、薬指、は、とどかない、模り、は、こぼれおち、彫像、が、煙り、とれてしまった腕で、膚に穴をあけて、切りとられていた、瞳孔のないあなたと、舌筋のないわたし、あおくちぎれるタルクに遍く、麗しの片端たち。
/きみがまだ海の中にいる/クリヴェリの卵にかかる劔をしぐしぐと削ぐのを見計らいながら恒常にあけくれた瞬きを佇もうと喚ぶとき/あの日没が狂おしくも粘質をたずさえあなたの眼球から今にあふれ/こわれてピニオンのあいだにおちた/音を消し畳み込んだ乳白の扇から信号がぽたぽたと溢れ暁がつくられはじめて/
/いななく静粛たちよ/ごらん/盲目が逃げ出していく/硝石のまぶしい簾をほどいて 切りとられた屈みにうつる足は見る目もなく砕け/あなたたちにうまれてしまった/わたしにきこえない階下と手の/火傷は蒼ざめてゆき/紛いもなくただならぬ今日から剥がれ落ちた夜は/
/足首をいくつもたばねて填めく天楼が解れ始めると孔雀色にまわる昨日の螺旋上でわたしたちいつまでもふみはずしたままかたむいていたくて/喰らいついたときの
白紙をえづくように並べ今日も執行されない焙りだしに一瞥を/帚木たちはゆるやかに炎をなしいばらの空に差し出す季節をひとつずつ折りながら無数の階段のなかで佇む/
/きみがまだ海の中に/引き戸から逃げこむ円寂に分かたれ占められながらあわい赤をした玉響が裾を分散しこ こへ俯せのあなたを耳のなかの天井まで送りとどけ/おおきく切り開かれた月のなかにすべてが集合していく/
/ふいに二度との/明かりも要らなくなる/あなたを/呼ぶ/まで/回転へ居つづけ/斜断し/ていく硝子細工の境いめで/ 上顎をくわれる/かの如く脚を准えた/膝をくくり/まばたきを止め/密度へ切りひらくあばら骨と/なぞるシクラメンの一指/潜り込むように/くりかえす式典/うしなうことに恙まれながら/きみがまだ海の中にいた/
とおくから
海が
数字をかぞえ始めるので
わたしはここで
横たえられねばならなかった
鉛たちがはしり騒いでいる
まよう線
箱はつるりと四角いまま
落とされた影が
なめらかに伸びて
銀粉が太陽を焼いた
しろく斑らな丁寧のなか
さわる淡い色を指で爆ぜ
天幕へ削がれていくように
とおく蹴りあげた脚の
背広が凍って
つらつらと重む
あなたのすきな
仰向けに眠る宙で
仰向けに眠るわたし
しずくは天井を伝い
穿たれた壁の波間から
穏やかな縁側がこぼれだす
爪先にほつれる糸を引いて
ひとり
あみものをしよう
彼女たちが
泥のなかから
ささやいている
(こえと
からだがあなたのわたしに
なるの)
なめとるようにわた
しのせなかがつめた
いよるのあわさえのみくだす
うみの
くるまを
たてにはしるひの
ふかく、
はきけとにまいかさねの
ひらたい、ゆめを、
ゆむ/
くち
/びるの
はねを、ねを
ね/むりを/き、かせ
、いきを
すったこと
(なまえ/なんて
・いうの
まるで)
オルフェウスの
ようだ
ね
(そうだね)
さよならを
(さよならを)
、を添えて
さよなら
あなたの袖が沈んでいる、
頚の眠るそばで
くろく光るみずみずしさに
たわんだ弦が鳴いた
笑いかける
消化器の
くずれていくのが
かなしい
影をいちまいめくる時の
しなやかな骨
これがすてきなのと呟く
あなたにあげようと
きめていた
くちの先を巻きつけるように、
示したものたちで
だれにも渡さないでいてと
伝えてくれただろうか
目のうつる海で
体をうらかえし、
彼女のくれたあなたたちを
着々としずめ直すとき、
折る辺もない
靴の先を砕こうと
あなたの歯でこじ開けてみる
庭にのせて
ひとり
クロールしよう
砂糖のなかで息をして
ふりかえる
骨ばみの所在は
教えてはいけないから、
下をむいてひとり、
竪琴のふりをした
鄙びたなみだは身体をおり曲げ
汐に軋みながら
波ぬれる金糸にのまれていく
伸ばして、
転がる灰色の
沫たちを撫でたとき、
曲線へ悩める窓辺まで
靭やいだ足元が
ふいに
垂直する
中綴じに気を這わせ、
くるしみを奉りたてたその
おおもとを辿れば
角度を攫う鬣は白く、
青く赤く燃えて
かくいう私はあなたを
見たこともないと
そう思える
ひとあし
あなたの頬色が
高らかにそびえるから
楽器を一枚ずつ剥がし
大切に食べてしまった
ドアに映し出す
甘い荒地
枯れる女
歯肉をすすぐ月
雨の道標
苦味のピアノ
夜の燃えかすを
放流できないまま
私は私が
知ることを知るけれど
電磁石の
音のない火花が
みずみずしく
体に湧き崩した飴のかけら
雫を替えるならば
ここに貸与したあなたがもう
また背泳ぎをはじめて
空中で吸い込んだ机の
口先に始まる物々しさを
薄やかな瞼へ似せて
はけてゆく
シャンデリアは
硬い糸をかくれる
足たちのしきつめた間取りも
とろける
かたくなった大地
ほつれる
眼鏡を幾度もなおし
くずれて
まばたくための唇
あなたは
帽子の
帰らぬままに
みえる
あなたの
私もそこで
しずかに凝固して
ありがとうと通り過ぎた
裸足の民をやさしく見送る
のに
私が
髪をほどくとき
ふくれた手が指揮棒をにぎり
おと
まじって
中指がはさむのは
耐え難くも
私の
を
をさえ
切り離す
そういう
とき
だった
太陽が
楽譜の軌道に向かう
或る一つの瞬きになるべく
いつまでも私が魚だけを
本の帯にしまいこみ
空虚な嘔吐が水辺をふるわせ
零れ留まる微細を
生み出すように
喪失せしめる
顔のない海鼠
干からびた雨水
使い古されたあなたの
横たわるところで
石榴をひと粒
舌でつぶす
座標点
卵殻
白い箱
陶器の淡ささえ
千に振り切り
吐き出していく
惑星の泥を、
骨組みを
肩にかけながら
だって私は
もう
家に帰るところ
そばにいるとやわらかい
あなたをみつけてだきしめる
くろいぴあののちょうしをととのえ
しろいめがみにてわたしいたす
わらうほほのやわらかい
あなたをてにとりだきよせる
つたがからまりくちびるにとげ
まあかにむすんだなみだとて
きらびやかなつゆしずくになり
きのうのばんをあたらしくする
ゆびからよるがぬけだしたなら
するどくなるはわたしのおみみ
こごえるむつきのてんまくのした
ぼろぼろくずれるひふをさしだし
ねがいよねがいりょうてをくみて
あのなまえのないかみさまへ
あなたのことばにいずみをあたえて
こよいもあすもいつまでも
きよらかなそれをおとすように
わたしはえふでをみずにさし
かませたえのぐであまたのもよう
あさひのごとくにやわらかい
あなたのてをとりだきしめる
わたしはあなたをだきしめる
こごえるむつきにだきしめる
甚だしくすくい上げていけ
なぜなら哀しくしてしまう
オフィーリアの姿勢だってこそばゆく深く
どこまでも深く
青い・青い・青い
、
ゆらぎないゆらぎの中へして
息づかい共々夜に滑走せしめる
人間の背たけも飲み込む様子に
さかさまわした腕
(めくらの裸足は、
居ないはずを知り尽くす)
サクソフォン、
ビルのすきまを抜けて
金羊毛と堕落していく土くれの渦
コンテナーがとける/厳かに傾けた静寂
わたしが知ったふりして未だに泣いている
その産み落とされたわたしを抱いたのは
昨日の今日の明日のこと
「十戒を持ちその駆け足で行為」
クロール・クロール
食いしばるように囁きかけ
なつかしい近代を華やいでいく
侵入と琥珀/細かな虹色の静まり
そしてクロール
もう一度
クロール
彼女の血液では容易くもおよいでいたい
彼女の血液では容易くもおよいでいたい
真白くたかい城壁に
いのりの言葉をうちはなつわたしは
ありありと反射されている
しろく・冷たく・膨張した箱にクレバスが
こじ開けられて
形をなされたわたしの腕が
淀みなく連続
青い・青い・青いクロール、
もう一度だけ、
クロール、
しろい、
さしかかる北極
触覚は見当たらないのに
まばゆぐ包装紙と
羊水の中の毛細が
たゆたゆと爪から見えて
許せない儘のあなたは何度も
ロランの船出を掻っ切った
あかい、
ホタルのような口唇
ナイフが耳朶に滑る感覚と
いつくしい同格を共に編み上げる
大理石の表皮を持つ四肢たち、
耳・まぶた・顔のうすい皮に
ペタペタと触覚が降りた
そこにも・ここにもいない事象
わたしの外殻を建て直して
再びあなたの力で食いつぶしていく
・
雌雄複合体です
頭の麦わらを奪いつくすまで
望むように明滅している
泡をぶくぶくと溢れさせ
干からびた胴体をねじりきって
灰色に光るのは
(びらびらした月蝕の声)
来たるべき液体はこぼれ
半鐘と共に蛹化が終わる
しろいしろい、しろい粘膜から/青
銅色のショウリョウバッタが躍動に
祈りを捧げ/眼球はぐるりと彫刻の
方を向いたまま凝視・できる(みつ
けた、あなたの脇腹の中)
うばわれた視神経/美味そうな顔を
滑らせ/まろやかに喀血する/わた
しの上半身/岩塩を打ち破った嬰児
の死体
干からびて
右手に握りしめて
残香は散らばっていく
半鐘するフィメールの茨
疾患のような紅葉を
空に浮かぶ子宮へ埋め
あなたに手折られた腰から
流れるわたしの血漿は
水辺に身体を横たえ
一糸一糸とほどかれ
不可視の可視を
猛毒の綿毛を
口に含みながら
空間を持たないわたしが
北極で静かに傍観している
わたしが居ない此処で
あなたはどうして
土まみれの手を
降誕に
くべているのか
水たまりから浮かび上がるきらやかな鏡の肖像、そうしてわたくしの回りを取り囲んでおります残像、わたくしはぼんやりとそれを見つめています、昨日の昼の、世界がわたくしの。
(あめと、つちと、わたくしの)
こうして清浄な空気の元に横たわりますわたくしは幾度となく七つを渡り、天球の軸をまわし、逆さの海面を通りそしてまたこの硝子とも岩ともつかない部屋の中にこころを回帰させます。そうでした、あれからいくつすぎましたでしょうか。
(ひとつ、ふたつ、いくつでしたか)
わたくしのまわりではどうやらこれはいわゆる食べられた、もしくは隠遁と云うようなのでした。わたくしはこころに連れ立ち行くものでしたから周りのことは何一つでありますがそれでは何とも、わたくしは我が儘なおなごのようなのです。
(みちる、みちる、かけていく)
こころも流せずにゆらゆら持て余しましたわたくしの黒い髪はわたくしのこめかみのあたりをするり、するりと動いてそのまことを本人を以てして知らしめておりました。扉のすき間からさしこむ光は月のそれでしかなくなります。流転。
(どこに、ここに、わからない)
あなたもおいで、たのしいから、とわたくしを誘う声が遠く遠くきこえてきます。わたくしは今が今である所以をつらつらと思い返します。ささくれていたわたくしの右指は既に治りましたけれども、磨耗しましたはげしさは退屈といい、それはまた或る種の壁といいます。
(いつも、いつも、となりあう)
こぼれた月が鏡にあたり、わたくしの膝元にちら、ちら、と散ります。向こう側ではわたくしを戻そうとする動きはとうに果てて、やあやあと愉しく騒がしく何かをおこなっております。わたくしは体をおこして扉に手を触れました。かたく、ひやりとして、わたくしもこの手の先から石になりはじめるような心地がいたしました。
(つきが、つきが、みちていく)
扉にふれた時、それは勢いよく開いていきました。大きな光が差し込む頭上、わたくしの鏡にもそれは落とされ実にさらさらと朝のような輝きを放ちまして、わたくしの視界の先には大勢の人がいらしまして、出てきたわたくしをそれは喜ばしそうな目で見つめております。そしてわたくしの先、人だかりの真中にはわたくしと顔身体手足ひとつも違うところのない姿をしたお方がいらしました。
(みちて、かけて、もどりゆく)
その方が編まれている柔らかな微笑みはその方の舌のさきから客観的にわたくしにめぐりかえりました。そうでした。塑性して凍りもどりガラリガラと音を立てるようなそういう花と月と太陽。
まろびている夕やみ、
その暖色からぱっきりと、
青をした泡が立ち、
私の歩いているところに、
その滴が滲まされて、
硝子の縁側へ、
確かな印を穿つ、
ハッカを口にくわえた、
感触、
こぼして、
すこしすこし、
膨張していくのを、
解ったような、
そういう落下のこと、
すり抜ける柔らかさで、
絵の具に水をたらす、
電線も、
羊毛のような煙たちも、
ざぶんと終わりの色水につかり、
再生を予感して、
堅い地面から離れていき、
あがる、
まき、
あがる、
インディゴの、
鉛筆の破片、
凪のように厳か、
時化のように優雅、
蒸発していってよ、
何処の此処だ、
巻きあがり、
澄みわたり、
もっと、
以上もないほど、
煌びやかな、
様々の色彩を、
つまみあげていけ、
彫刻に引けを取らない、
その気高く白い手で、
ああ、
すべからくもどるのだ、
深く風が伸びる、
すべからくかえるのだ、
高く色が弾ける、
ここに、
そまるのだ、
くみ取って、
吸い上げるのだ、
これまでもなく、
私のからだは、
だだ広い、
透けた白をしている、
まもりぬく
卑しさに準える
わたしを否定しながら
雪は
産毛の上におちた
王冠
に代わり
つややかな曲線をたどって
印影に組みこまれる
zoetrope
まわる・
落下をおかした砂糖
砕けたスプーンは
ぬぐいさられ
くちびるに/くちびるを
与えよう
昼下のヴィオラ
アロエの時計
三粍と五秒の
型紙に包まれた
みたまはもう
飲み干してきたから
その象牙をほどき
筋を解いて
強かな歯並びで
いましめに名指す
惑う
はさみが午後を切り取るころ
雪の合い間
靴ひもを擲って
階段は
進められた
整列、
空爆、
砕けて
中に入る
白く
白いもの
あなたが
すべて嘗めてしまうから
協和質のひとつも
齎してほしい
ノートは水で焙れて
足は何度にもわたり
海まで
その性を以て
緻密な等間隔に
青い結界で編まれている
浅瀬は煌々と
ぬれる大理石に建設をうけて
あいまいさにつづめた膝
静かな円を
描きだしながら
かたちは
くるしく
ゆがみは
いとしい
みえないものを
いつくしみたくて
魂は
血を
潜めていたけれど
ハープが
まだ届いていない
散り穿く息に
弓をおろした
あなたの隠座へ告げる
耳に名前があるの、
朱子織のくいる
炙り出しと遮光は
凭れるような
水平へほどけ
たぐりよせた裾に潜む数多を
雹とふさぐ憐れ、
可笑しみの火花たちが
糸括りに噸して
なにもない
引潮
茫漠の
ほころぶ雨へ
蒸留されていく白痴
回転する八つの脚
外套を均す玻璃
鱗舐は泡染みの静か
垣間見る
紙のあいだから
あなたがわたしの頬を
嫌うように撫でた
会釈する望執
貝の女神
手筋に刻む
生糸のような
憂いを飲み下して
睫毛の小骨から
見える
天鵞絨の窓
すべりだす
色々しい陰翳
翡翠のまばゆさに
与えられた肩までが
しんしんと柔い
水母の憑いた
白い海を蹴りあげ
めくれ上がる身体は
慈しき句読点
子星の頚椎が裾をなで、
地はあまねく高潔を
零れ浸さぬよう
あなたの青へと
斎くように
二つ指は囁く
うらがえしの天地
散華に准えて
なだらく熔ける象牙
爪を鞣した夜
石英に浮かぶ四肢から
挨かれたままの
こころは頬杖をついて
今も
あなたの背綿を
甘やかに抜き取る
指揮者の首が
うつくしく弱いのだ、
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